あんぽ柿の歴史

あんぽ柿の歴史

柿ばせ

プロローグ

福島県の中央部を北上した阿武隈川が福島盆地(信達盆地)を緩やかに北東方向へ流れ下り、やがて宮城県境で峡谷へとたどり着く手前、川の北側の沿岸が開けたところ、北方に山を背負い、川と山に挟まれた五十沢地区があります。旧伊達郡五十沢村です。現在は伊達市梁川町五十沢地区になっています。

地形は北西に山を背負い、南東に傾斜しているため、北西風を避けるので、近隣の町村に比べて温暖であることから、「里謡」に曰く…

「五十沢よいとこ、日当たりよくて、ぐぢ菜たんぽぽ早く咲く」

あるいは、

「五十沢よいとこ、日当たりよくて、五月咲く花四月咲く」

と言われてきました。

地域の産業といえば農業が主で、米と養蚕が中心でした。
養蚕は昔から営まれていましたが、特に江戸時代には、財をなした庄屋・名主もあったようです。

平成12年に堤防が竣工しましたが、それ以前はひとたび大雨が降るや、阿武隈川が氾濫し洪水に見まわれる阿武隈川の最下流に位置する地域でした。さらに、西根堰の末堰のそして、その昔は、収穫できる米は8か月分という自給率の低い、されど農業は米と養蚕の小村でした。

【柿の由来】

五十沢に柿の木が植えられたのは、宝暦年間(1751年~1763年)のことです。

江戸時代の五十沢は、西半分が上五十沢、東半分が下五十沢と呼ばれていました。上五十沢の峯(みね)という集落に七右衛門という人がいて、この人がどこからか柿の木を持って来て植えたのが、五十沢では七右衛門柿と名付けられたと伝えられています。

七右衛門柿を剥皮し連にさげ、天日で乾燥したものを江戸時代に天干柿(あまほしかき)と名付けていました。

明治になると、江戸時代の七右衛門柿が蜂屋柿、天干柿があんぽ柿と呼ばれるようになりました。

特産物となっていない当時は、生で樽柿として、一部はあんぽ柿として「はせはずし」で売っていました。

背景

そうした五十沢村に製糸工場ができたのは明治41年のこと。

明治33年に産業組合法が発布せられ、明治41年に「有限会社 五十沢信用購買販売生産組合」を創立しました。この組合の事業は、器械製糸50釜の工場を設け、組合製糸を経営することでした。

当時、日露戦争と冷害によって農村は疲弊していました。五十沢村も例外でなく、いわゆる村の救済事業のひとつとして製糸工場の操業に取り組んだともいえます。雇用の創出の場でした。

地域が狭いこともありまた、伝統を重んじる農村社会の中で、当初、製糸工場の経営は厳しい者でした。

しかし、大正時代になって第一次世界対戦が勃発するや、世の中の景気が急激に良くなります。製糸工場も業績を順調に伸ばし、工場を藤田(現在の国見町)にも所有し、最盛期を迎える。いわゆる、戦争によるバブル景気…戦争特需です。

五十沢村の盛衰

この結果、五十沢村にも莫大な金が流入し、村民に大きな富をもたらすことになりました。

「金津波が来た」などといって、いつまでもこの好景気が続くかのように錯覚し、飲食店は酔客で常にあふれ、奢侈淫蕩の風が吹き渡り、「事を談ずるところ必ず酒あり」、「酒を飲まざるの徒は共に村政を談ずるに足らない」とまで豪語されました。

寄り合いがあるたびに大量の酒が飲まれ、冠婚葬祭ごとも大金をかけることが当たり前のようになったのです。

これらは、おおよそ大正5年~8年ごろのことで、大正9年になると、世界恐慌がやってきました。

物価は下がる。借金は残る。加えて製糸会社は50万円(当時、1,000円で家1軒が建てられたそうです)もの損害を生じ、そのため、掛け売り繭代金の回収不能となり、急転直下不況のどん底に落ちました。

さらに、大正14年秋の火災で製糸工場を消失してしまいました。

牡丹餅会(ぼたもちかい)の誕生と村の再生

こうした奢侈放蕩の風俗の中、いつまでも好景気が続くはずがない、戦争特需の終わりに備えが必要…と憂慮した五十沢の人たちが集まりました。そして、協議の結果、酒を飲まず、真面目に一村のことを語り合う会をつくることを決めたのです。一村産業の振興、文化の向上発展、村風の改善作興を図ることを目的として、牡丹餅会(ぼたもちかい)を結成しました。

大正7年11月、安禅寺庫裏において、牡丹餅を食べながら発会式を行なった。牡丹餅会の名前の由来は、メンバーの多くが甘党だったことによります。

好景気の失速後、五十沢では、牡丹餅会が中心となって、村の再生に取り組んで行くことになります。

一村産業の振興の中に、あんぽ柿もありました。

あんぽ柿誕生

あんぽ柿誕生は、ある情報がそのきっかけとなりました。

大正の中ごろ、隣村の大枝村根岸の佐藤福蔵が米国カルフォルニア州に行きました。そして、干しぶどうの乾燥に硫黄燻蒸を行っていることを郷里の兄、佐藤京三に教えたのです。京三はそれを柿に応用しようと試行錯誤しましたが、成功しませんでした。

五十沢村がその情報を得たのは、柿の加工時期に尋ねたことがきっかけだったと云われています。

硫黄の臭いが辺りに漂っていたことから、硫黄を使用していると確信しました。さっそく、柿の皮をむき、竹の簀の子を敷き、連(柿を下げるひも)に下げた柿を載せ、下から膳皿いっぱいに硫黄を燃やして軒場に吊るし、天日乾燥を試みました。その結果、実にきれいな飴色のあんぽ柿ができたのです。

しかし、取引先の八百屋さんへ販売したものの、渋いので返品され、失敗に終わりました。

その後も試行錯誤、暗中模索の研究は続いたものの、一朝一夕に飴色のおいしいあんぽ柿をつくることはできなかったのです。

それから数年後、大正10年11月15日、県より乾柿加工講師を招いて加工法の講習会を開催するも結果は良くありませんでした。

しかし、それでもなお、鈴木清吉が先導となって、前村長他数名が集い、簀の子を使用した硫黄の燻蒸方法のさらなる研究、改善に努力し、黒あんぽと違った渋味のないあんぽ柿の感性を目指したのです。開発を続けながら試験的な出荷も続けました。

失敗に次ぐ失敗を重ねながら、硫黄の量を割と少なくして、時間を長くしない方がいいことが分かってきました。

大正11年には、京都、名古屋、大阪、神戸等の各市場を視察し、容器の改良と品質の向上、販売の時期調整等の改善を進めました。

大正12年11月3日、五十沢あんぽ柿出荷組合を創立。

同年12月25日、東京神田市場へあんぽ柿1箱200個詰め、690箱を出荷。

この時のあんぽ柿の一個平均の価格、1銭6厘以上、他方、黒あんぽ柿は1個平均、5厘前後で、飴色のあんぽ柿は3倍以上の値がついたといわれています。

大正12年といえば関東大震災が起きた年です。
五十沢村では、村の財政は悪化の途をたどっていた時期です。2年後の大正14年秋には、製糸工場が火災で消失し、さらに借財が増すことになります。

こうした時期、牡丹餅会のメンバーは、あんぽ柿が今後の五十沢を担う有力な商材であると考えていました。

昭和2年3月4日~8日 興村講習会(全村学校)開催。

佐藤昌一先生の着任

昭和4年4月、佐藤昌一先生が五十沢農業公民学校に、教師として着任します。

現東白川郡塙町出身の佐藤昭一は、大の勤勉家で頭脳明晰、生徒、村民からの信頼も厚い先生でした。

五十沢村でのあんぽ柿の安定生産、普及には、佐藤昌一の協力が不可欠でした。

佐藤昌一は、自費で燻蒸箱を作り、昼夜を分たず苦心研究、ついに体系的なあんぽ柿の製法を完成し、「硫黄燻蒸 五十澤アムポ柿」と題して、小冊子を発行したのです。この小冊子は、村民及び希望者に配布されました。

「硫黄燻蒸 五十澤アムポ柿」は、昭和8年11月3日の発行です。

この小冊子の沿革の項からその一部を引用します。

「名産物の歴史を繙いて見る時其の成功を収めるまでには過去幾多の苦心研究の跡が、展開されるのが常であるが、本村のアムポ柿も亦其例に洩れない。

・・・・・中  略・・・・・・・

隣村の方法を探知して、硫黄を用ひることのみは大方見當がついたので、本村につき種々苦心研究の結果遂に成功の歓喜を収め得たのであるが、燻蒸器内容積と硫黄量と燻蒸時間との関係を科学的に確かめたのは著者の努力研究に依るものと信じている。」

佐藤昌一先生が硫黄燻蒸に取り組んだ姿勢が伝わってきます。

昭和2年「福島民報」の県内名産投票に当選し、次いで「東京朝日新聞」の産業欄紹介され、五十沢のあんぽ柿の名は徐々に全国に知られるようになりました。

昭和12年2月10日には、佐藤昌一が仙台放送局よりあんぽ柿を放送します。

現代でいう「6次化」が実現しました。

明治以降五十沢村は、時代の趨勢に揺られながら、課題を克服し成果を残してきました。

あんぽ柿は、太平洋戦争時作ることができなくなったものの、その後の高度経済成長期には全国の干し柿産地を代表するまでに成長し、五十沢村、その後の梁川町に、伊達市に、重要な役割を果たしてきました。

五農式硫黄燻蒸器(先生が自費でつくったもの)

五十沢農業公民学校2

硫黄燻蒸 五十澤あんぽ柿

五十沢農業公民学校

現在のあんぽ柿

平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災による福島原子力発電所の事故が発生し、五十沢地区にも風に乗った放射性物質が降り注ぎ、大きな被害がありました。数年間の出荷自粛は、五十沢地区に致命的なダメージを与えましたが…その間、懸命に除染作業を行い、厳密な放射性物質の検査態勢を整え、地区一丸となって復興に努めています。現在、五十沢地区の放射線レベルは、全く危険の無いレベル…自然放射線のレベルです。(原発事故がなくても、世界重度の地域でも、多少の放射線があります。そのレベルまで落ち着きました)

あんぽ柿を初めとするあんぽ柿も、出荷を再開していますが、まだ、風評被害もあり、震災前の出荷量には届いていません。

厳密な放射性物質の検査を行って出荷していますので、あんぽ柿の安全性は折り紙付きです。健康に良い五十沢のあんぽ柿を安心してご笑味下さい。

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加工食品等の放射性物質検査について - ふくしま復興情報ポータルサイト - 福島県ホームページ
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